2024年12月14日
1970年代ミュージック・メモリー新着邦楽

野口五郎が10代の時のヒット曲を振り返ってみました

野口五郎は昭和46年「博多みれん」という演歌でデビューしました。
これは残念ながらあまり売上は伸びず、
当時は私も聞いたことがありませんでした。

ところが、「青いリンゴ」というポップスを出した途端、ブレイク。
その後、着々とヒット曲を出し、
昭和49年「甘い生活」はオリコン週間チャートで2週連続1位、
昭和50年「私鉄沿線」は3週連続1位を獲得、

同年レコード大賞歌唱賞を受賞しました。

15歳でデビューしてから4年、19歳の時でした。

野口五郎が10代だった時のヒット曲を
Amazon Music Unlimitedで検索してみると、
ある、ある、全部ある!

せっかくなので、青いリンゴから私鉄沿線まで、
プレイリストにしてみました。

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野口五郎のシングルヒット曲は、
ベスト盤ではなく、シングル盤で1枚ずつ登録されているので、
当時のジャケット写真が全部見られます。
それだけでもかなり嬉しいですね(T.T)

野口五郎シングルヒットプレイリスト

こうして並べてみると、
4年で14曲、たくさん出たけど、全部歌えるぞ!とか、
「私鉄沿線」でまだ10代だったのかー、とか、

いろいろと発見がありますねー。

また、じっくり聞いてみると、
昭和歌謡に抱いていたイメージを覆すような
クオリティの高さがあちこちで感じられたので、

思うところを記事にしてみることにしました。

[toc]

野口五郎がデビューした1971年(昭和46年)とはどんな年?

1960年代、グループサウンズの登場で、
ステージの男性歌手に女の子がキャーキャー騒ぐ、
という現象が日常となりました。

ところが、70年代に入った辺りで、
人気バンドは、そのほとんどが解散か、自然消滅。

タイガースも71年1月に解散し、
女の子がキャーキャー言う対象は
フォーリーブスくらいになってしまいました。

1971年、ソロ歌手、演歌以外でオリコン年間チャート入りしているのは、
尾崎紀世彦、にしきのあきら、あおい輝彦、ぐらいでしたが、
いずれも20代になっており、
当時としては「少年」のイメージはなかったと思います。

そんな中、「青いリンゴ」で登場した野口五郎は、
まだ15歳の少年。

長髪に甘いマスク、絞り出すせつない声。
少女たちがキャーキャー騒ぐ唯一の歌い手だったかもしれません。

ちなみに、このときは、るりっぺ小学校4年生。

野口五郎の存在を知ったのは、
なんと少女マンガでした。

少女フレンドだか、マーガレットだか、忘れちゃいましたが、
当時、表紙を開いたところに、
いろんな「スター」のシールが挟み込まれていたんです。
1ページの3分の1ぐらいの大きさのスペースに、
切手くらいのサイズの顔写真シールが何枚かついていました。

一時期、少女マンガ雑誌の巻頭は、
「小さな恋のメロディー」のカラー写真で埋め尽くされ、
「スター」のシールも、ほぼ全部が「マーク・レスター」。

その中に、段々と、
野口五郎のシールが登場しはじめたのを
今でもよく覚えています。

この「シール」の影響は大きかった。
「シール」になっている、ということは
少女たちの「ときめき」や「あこがれ」の対象になっている、
みんなが「きゃー!」って言っている人なんだ…

翌年、私は「小学校5年生」を買うのを止め、
その代わりに「明星」を買い始めました。

そして、誰かの「ファン」になる、ということを覚え、
生まれてはじめて、自分の部屋に「スター」のポスターを貼りました。
「明星」の付録についていた野口五郎のポスターです。
親や兄には「バカじゃないの」と言われました。

家族が認めないことをやる、というのも、
ちょっと反抗しているような、大人になったようなワクワクする体験でした。
レコードを買うお小遣いはなかったし、
まだラジカセも無かったので、
歌謡番組をひたすら見るだけでした。

でも、明星の付録の歌本のおかげで、
どの曲もいつの間にか歌えるようになっていた。
本当にしあわせな時代だったなあ。

「青いリンゴ」の年は、
マクドナルド1号店が銀座にできたり、
カップヌードルが発売になったり、
ファーストフード元年とも言える年。

ちょっとだけ新しい時代になった雰囲気もあり、
自分にとっても印象に残った年となりました。

青いリンゴから私鉄沿線までは少年野口五郎の壮大な青春ストーリーになっていた

こうやってシングルのリストを眺めてみると、
「青いリンゴ」は大人になる前の初恋がテーマだけど、

新曲を出す度にどんどん成長していって、
別れの時を歌うまでになってしまいます。

「私鉄沿線」に至っては、その別れすら過去のものとして振り返る、という設定になっているんですよね。

「青いリンゴ」で初恋を歌ったのが15歳、
4年の間、ものすごいスピードで大人になって、
「別れ」を思い返したのが19歳です。

私は「私鉄沿線」の頃もまだ中学生だったので、
野口五郎はもう立派な大人に見えていたのですが、

今思うと、19歳でここまでの表現力をつけたというのは、
相当な努力と思い入れを持って歌を作り込んで行ったのではないでしょうか。

それぞれの時代に情景の色があった

野口五郎という歌い手は、
恋愛や別れの感情だけでなく、
情景を語るという部分にも、類い希な表現力を持っていると思います。

私だけかどうかわからないけれど、
それぞれの歌を聞くとイメージカラーが見えて来て
それが彼の成長と共に入れ替わっていくのが
季節の移り変わりのように感じていました。

「青いリンゴ」から「雨に消えた恋」までは、まさに青。

ちなみに「会えない」とか「許されない」という歌詞は、
不倫を歌っているんじゃないですからね〜(^_^;

昭和40年代はまだまだ「見合い結婚ですか?恋愛結婚ですか?」なんていう質問が成立した時代。

自由恋愛というと「進んでる」、
結婚前に一緒に暮らす「同棲」など持ってのほか、
という感覚でした。

若すぎる→勝手に女の子と付き合ってはいけない、
という論理が普通にまかり通っていたので、

「若いと何でだめなの?」という問いかけが
テーマになり得た時代だったのです。

大人たちが「ダメ」と行ったことに抵抗していたのが
「青の時代」だっとすると、

「雨に消えた恋」より後、
「オレンジの雨」から「告白」あたりまでは
「燃える時代」だったのではないでしょうか。

「オレンジの雨」は
「そんなこと〜 どうでもいいじゃない〜」なんて、
かなり手慣れた口説きから入ってきますw

「君が美しすぎて」は
「うつくしすぎて〜 きみがこ〜わい」
「愛さずにいられない」は
「だからもう〜 つらい過去など言わないで」

というように、いずれも
女性にストレートに語りかける歌詞となっています。

「若すぎる僕たちだけどー」と自分語りをしていた
青の時代とは、随分違いますよね。

そして、ついに「こころの叫び」で
あなたを「捨てる」ところまで行っちゃいます。

この時、野口五郎18歳。

当時は18歳で社会人となり独立する若者が圧倒的に多かったし、
結婚年齢も若かったので、わからんでもない状況設定ですが、
それにしてもかなり背伸びしないと歌えない歌詞だったと思います。

この辺から、歌のカラーも枯れ葉色、ブラウン系になり、
「告白」で一時かなり赤く染まったものの、
「愛ふたたび」でちょっとヨリを戻そうよ、と歌い始め、
再びブラウン系な感じになってきます。

「甘い生活」で別れが決定的になり、
「私鉄沿線」では、その「別れ」すら過去の思い出として振り返るとなると、これはもう枯れ葉な感じのイメージになって来ますよね。

この14曲は、あとから聴いてみると
15歳の少年がどんどん大人になっていくという
壮大な青春ストーリーが展開されていたのでした。

これはちょっと驚きましたよね。

アレンジの方もじっくり聴いてみよう

あの頃は、売れている歌手なら
3ヶ月に1度のペースで新曲を発売していくという
過密スケジュールが当たり前でした。

歌手一人だけでも3ヶ月に1度なのですから、
作詞・作曲家、演奏陣、レコード会社の担当者は
相当な曲を抱えてたに違いありません。

誰から聞いたわけでもありませんが、
きっとラブソングの定番的な歌詞と曲が
テンプレート化していて、
それにあてはめて量産していたに違いない、
そんな偏見を持っていました。

新曲を出すときは、
衣装やアクションを目新しいものにして、
ヒットをねらっているのだと思い込んでいました。

でも、そんな単純な生易しいものではなかったようです。

このシングル盤リストを見ただけでも、

少年野口五郎の成長をちょっとずつ先取りし、
現実より、少しだけ大人なイメージで
曲を作っているように思います。

歌詞だけでなく、演奏のアレンジも。
「悲しみの日曜日」からエレキギターのリフが入るようになり、
「青い日曜日」ではかなりロックな感じ。若さを強調していますね。

でも、燃える時代に入ると、
「オレンジの雨」ではベースが前に出てきたり、
「告白」ではドラムフィーチャーになったりして、
大人っぽさが出てきます。

「私鉄沿線」では、シタールを取り入れ、
その独特な音色で大人の哀愁を表現するところまで行きました。

一体何曲先までプランができていたのか、
あるいは曲毎にものすごく集中して
コンセプトメイキングをしていたのか、
今となっては想像するしかありませんが、

とにかく、「量産」されていたにもかかわらず、
想像以上に丁寧に、計算されて作り込まれていたんだなあ、と
聞く度にひたすら感心しています。

「ミュージシャン」野口五郎の逸話

あの頃の歌謡界ではどうやって曲を仕上げていたのか…

すごく気になってきたので、
ご本人のブログを読んだり、著書を取り寄せてみたりして
いろいろと調べてみました。

すると、これまで、想像もしていなかったことが
わかってきました。

そもそもデビューの段階で、
ポリドールレコードの担当者が、
野口五郎をデビューさせるための会社を作ったこと。

レコーディングの時は、作詞・作曲の先生とミーティングを行い、
野口五郎本人も曲作りに参加していたこと。

著書にもこう書かれています。

「僕は歌の中に、僕にとってのウソがあるとどうしても歌えないので、
そのことをせいいっぱい説明します。先生はこういう僕の意見を聞いてつくり直してくれます。」

もう一度繰り返しますが、野口五郎のデビューは15歳です。

プロデューサーも、レコード会社も、
3ヶ月ごとに新曲をレコーディングするという過密スケジュールの中で、
高校生の歌い手の思いをちゃんと取り入れて一曲一曲作り込んでいたなんて、
そんなに丁寧な仕事をしていたなんて、
誰が想像していたでしょうか。

昭和のスター歌手は、
世間で言われていたような
お飾りでも、操り人形でもなかったのでした。

そして、その著書には、
サンプラザのコンサートで歌うためだけに
「愛の肖像」という30分の歌が作られたことが書かれており、
歌詞も載っていました。
新書で11ページに渡る長い長い歌詞の曲でした。

野口五郎は、コンサートの終了時、
スタッフと一緒に、会場の機材の撤収作業をやっていたそうです。

このプレイリストの曲は
そんな「ミュージシャン」野口五郎の
10代の歴史です。

全部知ってる!という方も、そうでない方も
そんな背景を踏まえて、もう一度聴いてみてはいかがでしょうか。

[参考文献]

野口五郎が10代の時のヒット曲を振り返ってみました」への2件のフィードバック

  • ゆりっぺさん

    野口五郎さんの記事読ませていただきました。
    ゆりっぺさんの五郎愛も感じました(笑)
    わたし、、五郎さんのこと侮っていました。反省します。。
    当時は西城秀樹さんや郷ひろみさんの歌う派手な歌が好きなお子ちゃまでした~
    青いリンゴから順に聞いてみたところ、、、
    五郎さん表現力。。今更ながら感じることが出来ました♪

    ところで、、部屋にアイドルのポスターを貼るのって結構抵抗がありますよね。
    それを小5であっさりやってのけた行動力にビックリです。
    私がアイドルポスター貼ったのは高校生になってからで~す。。
    それも~ドキドキしながらの大冒険でしたよ~(爆)

    また立ち寄らせてくださいね~(^o^)V

    返信
    • ほのぼの館長さま
      コメントありがとうございます!  るりっぺですm(__)m

      いえいえ、当時の年齢により、微妙に受け止めが違いますよねー。

      私にはかなり年上の兄がいて、
      兄もギターに西郷輝彦のステッカーなんか貼ってたし、
      南沙織のブロマイドも持っていたので、
      「私だって!」という対抗意識があったかもしれません(^_^;

      あ、でも、五郎さん一筋じゃなくて、
      ジュリーのポスターも貼ったし、
      西城秀樹の下敷きも持ってましたよーw 

      ただのミーハーですね(^_^;

      返信

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